教職経験20年を踏まえた今後の教育実践の課題
C中学校教諭 田中正浩
1.これまでの歩みをふりかえって
 20年目を迎え、これまでの教職経験をふりかえってみた。
 教育実習はしたとはいえ、大学を出ていきなり1年生の学級担任を任され、何もわからないまま1年目はスタートした。A中学校は開校11年目で、若い先生もたくさんいたし、大規模校ということもあって、エネルギーにあふれた若々しい学校という印象があった。学年主任の先生からは「いいと思ったことは失敗を恐れずどんどんやりなさい」と励ましてもらったものの、経験不足から様々な失敗を重ね、自信喪失に陥る毎日だった。まわりを見渡す余裕もなく、一人で落ち込みがちだったが、今から思えば学年の先生は辛抱強く見守ってくださり、なんとか1年目を終えることができた。
 2年目からは少し、まわりの先生のやり方なども参考にしながら、自分なりに学級経営を工夫できるようになり、生徒に対しても余裕を持って接することができるようになってきた。A中学校での3年間はあっという間に過ぎたが、この3年間の経験が自分の教師としての基礎となっている。何よりも、ほとんど同じメンバーで3年間を過ごした学年の教師集団の存在が大きかった。生徒を信頼し、ダイナミックな取り組みを通して生徒の自主的な力を育てるという方針の下、実践を積み重ね、生徒もそれにこたえてくれたことが何よりの財産となった。
 4年目、結婚を機にB中学校へ転勤した。A中学校とは対照的に歴史・伝統があり、校舎も古く地域との結びつきも強いものがあった。転勤早々、突っ張りグループと対立する場面に遭遇し、その後も数多くの生徒指導上の経験をすることになった。
 B宇治中学校には結局9年間いたが、前半は人権教育部での活動を中心に取り組んだ。**地域と自衛隊駐屯地に囲まれた場所に位置し、人権や平和に関する教育は時として微妙な問題を抱えながらも、それだけに、熱心に取り組むことができた。
 後半は生徒会活動を中心に取り組み、生徒主体の学校祭づくりを推し進めた。それまでのB中学校の学校祭は教師主導で、1年の学年主任が原案を作る、生徒はその原案通りに動くという流れがあったのだが、原案作成段階から生徒会本部を中心とした生徒の活動を重視して取り組むようにし、内容も縦割りブロックのものへと大きく変革させていった。もちろん、生徒会担当教師を中心とした、「新しいB中学校の伝統を創ろう」という提案には反対意見もあったが、それまでの伝統を大切にしつつ、他校の実践も参考にしながら思い切って新しいことを取り上げ、実践していった。課題を持った生徒はたくさんいたが、そういう生徒への生徒同士の働きかけの大切さ、そして有効性を実感することになった。最後の年には特活部長になり、地域部長として府中教研の活動にも積極的に取り組んだ。
 13年目にC中学校に転勤、新たな環境の中、それまでの経験をもとにしながら新しいスタートを切った。C中ではパソコンの活用が進んでおり、文書作成だけでなく、成績処理や授業にも大いに導入されていた。そんな中、2年目から3年間、情報教育部長を任された。成績処理を中心としたパソコンのソフトウェアの研修を積み、校務の軽減、スピーディーで美しい文書作成、正確なデータ処理のために努力した。これは後に進学主任を任されたときにも大いに役立った。
 同時に、C中はクラブ活動が盛んであり、顧問となった卓球部も入賞の常連だった。それまでの2校では吹奏楽、サッカー、野球などを担当したが、いずれも副顧問としてであり、関わりも薄かった。C中で主顧問を経験し、その難しさを実感すると同時に、充実感を感じることができた。
 18年目と19年目は進学主任を務めた。特に、19年目は高校入試の制度が大きく変わるときで、初めて学級担任からはずれた年でもあった。進路主任として、事務処理に終われる毎日が続き、生徒との結びつきがややもすれば薄れがちだった。しかし、この1年は担任の仕事のすばらしさを再認識すると同時に、副担任としての仕事という点でも大いに勉強になった。

2.これからの教育実践を見据えて
 20年目、再び学級担任、そして特活部長を務めることとなり、今に至っている。採用された当時からは教育課程が変わり、学活や行事が削減された中で、いかにして生徒の集団活動の豊富な経験や、それを通した自主・自立の力を身につけさせていくのかが大きな課題である。どんなことをするにも、自分一人では取り組めない。学年、学校の教師集団の力に依拠し、全体の合意を大切にしつつ、多くの先生の力を借りながら一つ一つの取り組みを成功させていきたいと思う。