田中ひろ子のノボシビルスク通信(6)
(「日本とユーラシア大阪府連版」2009年4月15日号掲載)

最終回―ロシア人社会を観察・分析して

日ユ協会大阪府連の皆様、こんにちは!ノボシビルスクの田中ひろ子です。記事連載のまとめにかえて、ロシア人社会を観察・分析して見えてきたことをお話したいと思います。
 人は自分で気づかない間に、その人の育った社会の価値観、約束事にのっとって物事を認識、判断、行動するため、異文化社会で暮らす場合、不意打ちを食らって心に痛手を受けることがあります。これをカルチャー・ショックといいます。大陸の端に位置する島国日本では、限られた小さな空間のため互いに迷惑をかけないことが社会の第1ルールになっており、日本人の神経は大変繊細に発達しています。その上、武士道的道徳観というユニークな精神文化を持つため、日本人にはカルチャー・ショックの危険度が高いのです。
 日本では、「誠実、礼節、謙虚、潔白、名誉、思いやり」を「善」とし、人間の品格の判断基準とします。年長者は尊敬に値し、年少者の模範であらねばなりません。一方、ロシア社会では人との付き合いにおいて、年齢は何の意味も持ちません。年長者が年少者を思いやり、助けることもないかわり、年少者が年長者に遠慮することもなく、関係は対等です。日本人にとっての美徳「控えめで、おとなしく、謙虚」というのは、「誇示の文化」であるロシアでは「悪」です。活発、積極的で自分の意見を主張するのが「善」とされます。たとえば人前で妻や夫、子供のことを悪く下げて言う日本の謙譲の習慣は、ロシアでは禁物。そんなことをすればその人は信用を失い、軽蔑されます。「誇示の文化」であるため、目立つことが良しとされ、いかに独創的で奇抜かの競争になります。同一であることを好む日本人は、皆と同じものを持ちたがりますが、ロシア人は、誰も持っていないものを持ちたがります。誰も知らないことを知っている、誰も出来ないことが出来るのが自慢で、相手を驚嘆させた者が勝者なのです。ロシア人の話が往々にして誇張されたもの、虚構になるのはそういう心情が原因です。ただ、日常的にそういう言葉の使い方をしているために、ロシア人にとって言葉の重みは全くなく、「言ってみただけ」という現象が起こります。ロシア人の「約束の不履行」は「約束した」という自覚自体がないことから起こります。これは沈黙を美とし、一旦発した言葉は必ず守るべきと考える日本人にとって、全く不愉快なものです。
 それでは「謙虚」をのぞいた「誠実、礼節、潔白、名誉、思いやり」の美徳ならロシアにもあてはまるだろう、ヨーロッパの騎士道とかなり共通するではないかと期待すると、実際のロシア社会ではその片鱗も見られず、全くの不意打ちを食らいます。つまりロシアには騎士道文化がないのです。では彼らの行動を決定する価値基準は何か。それは「弱肉強食」の動物的感覚です。ロシアの最良の教養人達は「残念ながらロシアは野蛮国だ」と言いますが、日常生活でロシア人を観察すればするほど、やはりこれがロシア社会解読の鍵であることが分かってきました。
 ロシアでは小さい時から、自分の要求ははっきり口に出して言わなければならない、欲しいものは自分から取りに行かねばならないと教えられます。したがってロシア人が黙っていれば、それは遠慮ではなく欲しくないのです。遠慮して黙っているのが「善」、それを気遣って相手の必要を満たすのが「善」の日本と正反対です。日本的感覚でロシア人に声をかけると不機嫌な反応をされて不愉快になるのですが、ロシア社会では気遣いは「悪」に近く、「余計なこと」という感覚だからです。常に自分の強さを誇示しなければならない「弱肉強食」のルールでは、「自分は弱くないぞ、欲しければ自分で言える」という感覚になります。ロシア人は自分に必要な場合、金銭も含めて物を遠慮なく借りにきます。育ちの個人差はありますが、基本的に彼らは大変ルーズで、日本人のように借りたものは出来るだけ早く返さなければ相手に迷惑をかけるという考えはなく、逆に、「必要ならば取り返しにくるだろう」という感覚です。したがってこちらも遠慮なく「まだか、いつ返してくれるのか」と請求しなければなりません。ずっと待っていると彼らは失念、紛失してしまいます。ロシアでは謙譲が「悪」でしかないのは、「弱肉強食」ルールでは、自分を弱く見せるのは危険な行為だからでしょう。日本人はどことなく遠慮気味で姿勢も猫背になりやすいのですが、ロシアではそれは「醜悪」です。常に胸を張り、堂々と威張っているのが「美しい」のです。「能ある鷹は爪を隠す」や「実るほど頭の下がる稲穂かな」という美徳はロシアでは理解されません。
 ロシア人は感情を表に出します。感情を隠す日本人は彼らには理解できず、「サムライだ、笑顔で切りつけるかもしれない」と気味悪がります。強さの誇示が「善」のロシア社会では、言い合い、口答え、言い訳は日常茶飯事です。これが彼らの会話の仕方といえます。どれだけ激しくぶつかっても、その瞬間にどちらが強いか試しているだけで、そのことで傷ついたりはしません。日本のように「私も悪かった、言いすぎた」みたいな反省も仲直りもなく、過去を振り返って互いの関係を評価したり調整したりすることはないのです。過去のことは忘れて先に進むのがロシア流です。相手への感謝も一時的なもので、それを恩に感じていつかそのお返しをしようという日本的感覚はありません。
 日本では外国人にはより親切に手助けしますが、ロシアでは反対です。外国人だと分かると店員の態度は急に乱暴になりますが、それは人種差別によるのではなく、言葉が不自由な外国人は社会で弱者だからです。ロシア人は権力に対して従順で反抗せず、不合理を笑って耐え忍びます。ロシア人にとっての平等は神の前での平等であり、社会の中での人間同士の平等ではありません。社会の中ではそれぞれが力関係にあり、扱いが同じなはずがないのです。また「一人一人は能力に差があり違う」というのが前提で、才能は特別扱いをするべきだと考えます。日本のような平等感も、公平さへのこだわりもありません。
 ロシア人は組織だった計画的な行動が苦手です。一方、常に無秩序の中に暮らしているため、危機にうろたえないという特長があります。日本人にとって事が予定通りに進まないのは不愉快で、すぐに憤慨、落胆するのですが、ロシア人は次々に起こる予定外の状況を、柔軟にヘビのようにクネクネとすり抜け、自分の要求を達成します。生命体同士、神経が大まかで厚かましいのと繊細なのが競り合うと、厚かましいのが勝ちます。それでロシアでは皮肉も込めて「厚かましいのは第2の幸せ」といいます。ロシア人の「弱肉強食」感覚が見えてくれば、ずっと付き合いやすくなります。彼らは細かいことをいちいち気にしません。気持ちも考えもはっきり主張されるため、大変分かりやすいと言えます。日本のように、相手の気持ちや考えを推測するために常に神経を緊張させておく必要はないのです。