あんなのノボシビルスク留学記(2)
(「日本とユーラシア」2007年12月15日号掲載)

 今回はノボシビルスクの音楽教育環境が、なぜ他市に比べて卓越しているのかを簡単にお話したいと思います。

疎開地にできた音楽院
 ノボシビルスクはロシアのちょうどど真ん中に位置する町で、19世紀末に鉄道が敷設されると、シベリア経済の中心地として急速に発展しました。その文化レベルをいっきに引き上げることになったきっかけは、第2次世界大戦の時にレニングラード・フィルハーモニーとキーロフ劇場(現在のマリインスキー劇場)の疎開地になり、多くの音楽家、バレエ芸術家たちがやって来たこと、1956年にウラル山脈より東側に初の音楽院(ノボシビルスク音楽院)が創設され、モスクワ、タシケントなどから教授たちが大挙やってきて、若い音楽家育成に熱が注がれたことです。

町ぐるみで才能を育成
 1969年には才能のある子供たちを小さい時から音楽院教授が指導する特別音楽学校(これが現在杏菜が在学中のノボシビルスク特別音楽学校)が開校し、ロシア各地から才能のある子供たちが集められ、教授たちがお互いに競い合って世界級の音楽家を多く生み出してきたのです。地方都市であることが幸いして、町全体が才能の出現に心をときめかし、その育成に協力する伝統が今も守られています。

 それでは本題に戻りましょう。2006年9月に私の勘違いからこの伝統校とは別の音楽院付属学校(通称リツェイ)にやってきた杏菜は、3月までの半年間バイオリンの授業だけを受ける契約で3年生に入ることになりました。9月1日にマリーナ・クージナ教授による審査があり、杏菜はモーツアルトの協奏曲第3番を弾きました。クージナ教授は世界的な名教師ザハール・ブロン教授の弟子で、シベリアでは一番の実力といわれています。
 杏菜は彼女のアシスタントのイリーナ・ゾーリキナ先生に習うことに決まりました。実は杏菜は留学直前の2006年7月、「京都子供のためのバイオリン・コンクール」で金賞を受賞していたし、審査の時にクージナ教授に「大変よい先生に習っていましたね。大きな問題はありません。」と言われていたので、レッスンはスムーズに進んで、ちょっと上手にしてもらえるだけだろうと高をくくっていた私は、そんな生易しいことではないということを思い知らされます。
 バイオリンの構え方、支え方、弓の持ち方に始まって、右手も左手も奏法も、文字通りすべての修正が始まったのです。今思い返しても、初めの3ヶ月はまさに血を吐くような苦しみの日々だったといえます。