ハバロフスク酔夢譚
目次

 1 ホストファミリーに巡り会うまで

 2 いきなり水が出ない

 3 森へ行きましょう

 4 アリョーシャの学校

 5 ダーチャにて

 6 永遠の灯

 7 ジプシーの村でエンスト

 8 ハバロフスク中心部を歩く

 9 日ソ親善音楽の夕べ

10 アムール河の波

11 郷土博物館のスターリン

12 自由市場はソ連を救えるか

13 回転ブランコとナースチャ

14 民族問題とゴルバチョフ大統領

15 ロシアの食生活

16 折り紙と「ロト」

17 レコードと小箱とリコンファーム

18 ビーチャさんの家

19 お別れの日

あとがき

「ハバロフスク酔夢譚」について

 

1 ホストファミリーに巡り会うまで
 
 8月9日金曜日午後6時30分(現地時間)ハバロフスク着。
 迎えに来てくれるはずの人が誰もいない。仕方なく妻は唯一の連絡先であるセルゲイさんに電話。初め電話のかけ方がわからず、ロシア人に教えてもらい、何とか通じたが、セルゲイさんはおらず、娘さんが出る。「お父さんは今、お客さんに行っている」とのこと。何時に帰るかわからない。仕方なく待つことしばし。やがてあたりは夕闇に包まれてくる…。日本から同行してきた団体旅行者はもうすでにホテルに向かって出発し、その場で行き来するのは見ず知らずのロシア人ばかり…。8時30分。もう一度セルゲイさんに連絡を取ってみよう、と思った瞬間に背後から、「タナカさんですか」の声。 それがセルゲイさんであった。しかし、僕達がいつ来るのか、誰の所に泊まることになっているのかについてはわからない。多分イーゴリさんだろう、ということで、セルゲイさんの車でそのイーゴリさんの家に向かう。日本側ホームステイの団体と、ハバロフスク側の責任者との間の連絡がどうもうまくいってなかったようである。セルゲイさんは責任者ではなく、日本語が少しわかるということで(そして信じられないことには責任者の家に電話がないということで)、彼が事実上の窓口になっていた。たまたま他団体からの連絡で近々日本人が2人来るということを知らされていたということで、今夜彼に連絡が取れたのも全くの幸運だった。非常に危ない橋を渡って、とにかく信頼できるロシア人に巡り会い、ひとまずはほっとする。
 イーゴリさんの家に着く。「ココデマッテテクダサイ」セルゲイさんは日本語教室で日本語を勉強しており、上手に話す。しばらくして戻ってきたが、イーゴリさんは不在の様子。エー!どうなってるの?「ダイジョウブデス、ナントカナルデショウ」ほんまかいな…。とりあえず、現地の責任者に聞いてみようということになった。
 僕達を招待してくれたのは囲碁の同好会から発展した「リゴ」という団体である。責任者のサーシャさんはハバロフスクの囲碁のチャンピオンで、日本にも何度か来たことがあるそうである。もっとも、リゴの招待状ではビザが下りず、実際にはノボシビルスク市の招待状が有効だったわけで、リゴという団体がどれほどのものなのか、その責任者のサーシャという人物がどんな人なのか、分かったものではない。
 セルゲイさんの運転は上手だった。自動車の学校に行っていたそうで、運転のプロだといっていた。夜の9時前だというのにヘッドライトもつけず、時速60キロ前後でバンバン飛ばす。やがて学生都市というところにきた。ここにサーシャさんの家がある。
 「チョットマッテテクダサイ。」またしても車に残された僕達2人は半分開き直った心境で、「大丈夫、何とかなるでしょう」と言わずにはおれなかった。しばらくしてセルゲイさんが男2人を連れて戻ってきた。1人は顎髭の立派な、サングラスをかけたインド人のような感じの人で、この人がサーシャさんらしい。もう1人はやたら背の高い人物で、どうも彼の友達らしい。ここで車を下ろされ、部屋へ向かう。とにかく落ちつける、何とかなった。部屋へ通されると美女が1人。これがサーシャさんの奥さんだな。今日はとりあえずサーシャさんの所にやっかいになるのかな、ところで、あの背の高い人は誰なんでしょう。妻が意を決して聞く。あのう…奥さんとあの人との関係は…?「オウ!夫婦ですわ。」
 つまり、僕達2人はこの時点で何が何だかわけが分からなくなっていたのだが、実はサーシャさんの隣部屋の人が僕達を受け入れてくださることになっていたコンスタンチン一家ということであった。背の高い、ただの友達と思っていたのがここのご主人で、サーシャさんの奥さんだと思っていたのはコンスタンチンさんの奥さんだったのだ。奥さんはご主人を愛称で「コースチャ」と呼ぶ。僕達もコースチャと呼ぶことにした。奥さんの名前はエーリャ。小学校2年になる双子の子供がいて、アリョーシャ君とナースチャちゃん。計4人家族だった。
 話の中で、エーリャさんが、「ところでいつまでおられるのですか」と聞く。「19日までです。」「そうですか。」…信じられないことにホストファミリーでさえ僕達がいつからいつまでの滞在か知らされていなかった。もちろんサーシャさんも知らないと言っていた。僕達2人は突然お邪魔するという形でコースチャさん宅に押し入ったわけである。しかし、後で述べるように、そんな突然の来客である僕達をここハバロフスクの住人はとても親切にしてくれたのである。
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2 いきなり水が出ない
 
 お隣のサーシャさんの家族がダーチャ(別荘)に行っていて、1人暮しとのこと。(ここでは夏休みに1〜2週間は別荘で過ごすのが普通。ゴルバチョフ大統領がクリミアの別荘に行っているらしいが、一般の人も皆別荘は持っているという。)そこでサーシャの2部屋あるうちの一部屋を子供2人にあてがい、僕達は子供部屋を占領することになった。コースチャさんの部屋と言ってもここは大学の職員寮で、1家族2部屋しか与えられていないのである。コースチャさんとサーシャさんはお隣同士で、しかもトイレ、洗面所、風呂場が共用になっており、廊下でつながっているのである。サーシャさんはホストファミリーを依頼されて、一番身近な人を紹介したのであろう。僕達としてもサーシャさんが近くにいるということで何かと心強かった。
 コースチャさん(29歳)は近くにある工業大学で「経済数学」を教えていて、趣味は釣りとコンピュータということであった。エーリャさん(28歳)はコンピュータオペレターの仕事をしているとのこと。アリョーシャ(本名アレクセイ)君とナースチャ(本名アナスタシア)ちゃんはこの9月から2年生に進級する。今7歳のかわいい双子である。
 こちらもひとしきり自己紹介したところでタイミング良くコースチャさんのご両親がミルクとカシワを手に登場。家が近くで、よく農場で採れた物を持ってきてくれるそうである。今年60歳になるそうであるが、顔色のよい賢そうなご両親であった。
 カシワ、つまり鶏肉だが、今つぶしたところとのこと。ビニール袋にいっぱいの羽をむしられた鶏さんが20匹近くいただろうか。(次の日から丸2日は食事の度にテーブルに登場するとはそのときは思ってもみなかった。)
 僕達は何とかこの「冒険」がうまく行ってくれそうな雲行きにほっとし、急に眠気に襲われた。シャワーでも浴びさせてもらいたい…と思っていたが、なんとこの2日間水が出ていないとの事であった。そんなばかな。飛行機から見下ろしたアムール河はどうも氾濫しているらしく、決して水不足ということはないはず。聞いてみても、さあ分からない、多分火力発電所のせいでしょうと気楽に答えるエーリャさん。もっとも温水は出るので手を洗うぐらいはできるのだが、温水と言ってもほとんど熱湯に近い熱さ。仕方なく、タオルをその温水で濡らし、身体を拭いて満足するしかなかった。
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3 森へ行きましょう
 
 2日目の朝。8時30分起床予定がやや遅れ、少し遅い朝食を取った後、森へ行きましょう、ということになった。エーリャさんと2人の子供も一緒だった。まずバスに乗ったのだが、日本と同じでワンマンバスである。「イカルス」という名前が付いているが、決して市民の評判は良くない。まず、排気ガスがすごい。特に坂道では重たい車体をウンウンうならせながら黒い煙をもくもく吐き出して走る。後日何度かイカルスの後ろを車で走ったことがあったが、熱くても窓を閉めずにはいられなかった。(車にエアコンが付いてないのは半分「常識」)。このバスのせいで街が汚される、とアリョーシャ君もぼやいていたほどだ。そしていつ乗っても満員である。日本と比べて自家用車の普及はまだ遅れており、人々の交通手段はこのバスと市電、それにトロリーバス。さらに、タクシーも走っているが、何と言っても庶民の足はどこまで乗っても15カペイカのイカルスだ。
 ソ連ではなぜかバスが不足していて、イカルスはハンガリーから輸入しているそうである。バス停はちゃんとあるのだが、時刻表などというセコい(?)物は見あたらない。バスが来たら乗る。当然のことなのだがバスに乗ったらみんな料金を支払う。ところが日本と違うのは料金箱にお金を入れても入れなくても、取っ手を回せばロール紙に印刷された切符が下から出てくるところ。しかもその切符は誰にも渡したり見せたりしなくてよいので、財布の中にどんどんたまっていく。もともと15カペイカという破格の値段ではあるものの、料金を払わなくてもわからない。無賃乗車は見つかればもちろん罰せられるのだろう。しかしコースチャさんによると、自分は今までにたった1回だけしか車掌さんを見たことがないという。見る者がいないとなるとあとは良心の問題ということだ。もし日本でこの制度を採用したとしたらどうなるか、きっと誰もお金を払わないだろう…と思うと、この国の人はなんて正直なんだろうと思ってしまう。
 もしもバスが混んでいて自分が料金箱まで移動できないときには隣の人を指でつついてお金を手渡す。するとそのお金がまるでバケツリレーのように次々にまわって行き…そしてそのルートを通って今度は切符が「バケツリレー」されて帰って来る。その光景をとても奇妙に感じてしまった。
 森の近くのバス停から小高い山を登ればそこは「森」である。ここで言う森とはすべて国有林である。そしてここの森は一応「森」として整備されているのである。子ども達が利用できるキャンプ場もある。看板には「森公園」とあった。しかし僕達の目にはやっぱりただの森にしか映らない。行き交う人は大体手にバケツを持っている。森で採ったきのこ等を一杯詰めて持っているのだ。休みの日にはこうして森に来てはきのこを採ったり木の実を摘んだりして行くのである。自然はみんなのもの。だから「森」は誰のものでもなく、誰もが自由に楽しめる場所なのである。
 エーリャさんはしきりに森を見ては「きれいでしょ」と言うのだが、どう見ても木がいっぱい生えているだけ。ロシア人はこういう何もないただの森に入っては楽しむのだ。「森に入りましょう。」意を決して入る。アリョーシャには食べられるきのこや木の実の区別がつく。学校でキャンプ実習があるが、その前には必ず事前学習があり、教えてくれるのだ。
 しばらく歩いていると蚊が寄ってきた。予想はしていたがあまりの大群に僕達が悲鳴を上げたので「出ましょうか」ということになり、道路に出た。ロシア人には寄りつかないのにどうしたことだろう、あっという間に3箇所ほど刺された。虫よけの薬をあわてて塗ったが後の祭だった。蚊のことをロシア語で「カマリ」という。「蚊にカマリてかまりません!」と叫んだのだがこの洒落は誰にも受けなかった。(というより通じなかった。)
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4 アリョーシャの学校
 
 部屋に戻って虫刺されの薬を塗り、気を取り直した後、近所の店を見に行った。「マガジン」と言っているので本屋さんかなと思っているとそうではなく、店のことをロシア語で「マガジン」と言うそうである。品数は思っているほど少なくはなかったが、それでも日本に比べると雲泥の差で、しかも高かった。靴が一足120ルーブル。エーリャさんの月収が190ルーブルであることを考えれば少し手が出ない金額である。
 ついでに少し書いておくと、コースチャさんの大学での給料は560ルーブル。副業としてコンピュータを使ったアルバイトをしているそうである。ソ連での平均月収は最近上がってきて800ルーブルぐらい。しかし、物価上昇に追いつけず、生活は苦しくなってきている。ペレストロイカで良くなったのは自由にものが言えるようになったことぐらいで、経済状態は悪くなった、ゴルバチョフは言うばっかりで何もしないとエーリャさんはこぼしていた。
 アリョーシャが「学校に行こう」と僕達を誘った。自分が自転車に乗って案内すると言う。この近くだよと言うのでほいほいついて行ったが意外に歩かされた。途中大きな通りを渡ったが、珍しく押しボタン信号機があった。通学路だからだろう。大体ここの人は平気で通りを横断する。車も平気でバンバン走る。日本のように交差点が多くなく、自動車も少ないからだろうが、信号機の数がやけに少なく感じた。
 学校は2階建てと3階建ての「コ」の字形の校舎で中庭はアスファルト。横に草ぼうぼうの運動場があった。今はもちろん夏休みである。なんと6、7、8月の3ヶ月間丸ごと休みなのだ。夏休みの他に、日本と同じく冬休み、春休みがそれぞれ2週間ずつ、それに11月に秋休みが10日間ほどある。休みの間教師も当然休みである。自主的に研修をするのだろうが、とにかく、その間教師は仕事がない。
 学校は1年から11年までで、7歳になった年の9月に入学。この学校は1学年3クラスであるが、そのままクラス替えがないそうである。そして驚いたことにはどこでもそうというわけではないらしいが、この学校は「二交代制」を採っており、午前の部(午前8時50分〜午後1時)と午後の部(午後1時50分〜6時)がある。(ただし、時間は授業時数によって変わる。)午前中自分の座っていた席に昼から違う人が座って同じ授業を受けるのである。1年生の時午前の部だったアリョーシャやナースチャは今度の9月からは午後の部になる。1年ごとに午前の部と午後の部が入れ替わるということである。
 クラスの定員は35人。1年から3年までは小学校で、担任の先生もその3年間は変わらないらしい。4年生からは日本の中学校と同じで、教科担任制となる。クラスはずっと固定なので、きっとどのクラスも問題なく…つまり、クラスが崩壊したりせず、うまくいっているのだろうと思われる。
 小学校での勉強は国語(もちろんロシア語)、言葉(ヤーズィク)、読書、算数、体育、「労働」などがある。ついでに、日本ではあまりそんなことはしないと思うが、アリョーシャとナースチャの双子はこの1年間席が隣合わせだったらしい。
 色々案内をしてくれるのだが、残念なことにアリョーシャの舌足らずのロシア語は妻には分かり辛かった。
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5 ダーチャにて
 
 次の日、日曜日。朝からコースチャさんの運転でダーチャに行くことになった。車は自分のではなく父親エフゲーニャさんのものである。ソ連製のНИВА(ニーバ)という車で、ВАЗ(バズ)−2121という工場で作られた大変優秀なマシンである。農業用に買った物でどんな悪路も何のその、それに結構スピードも出る。すでに10年以上乗っている。近々自家用車を買うつもりで近くにガレージを作っている。ガレージは自分で作ることを条件に、ただでもらえる。月1万円ずつマンションの管理組合に払っている僕とは大違いだ。
 ダーチャというのは別荘のことである。別荘と聞くと金持ちの道楽と思ってしまうのは思い込みである。昨日森へ行く途中でもダーチャを見たが、別荘と言うよりも田舎に建てた「小屋」である。(もっとも大統領クラスになると立派なお屋敷であるが。)夏期休暇などにはこの小屋に来ては野菜を作ったり採ったり、家畜の世話をしながら何日か過ごす。
 コースチャ家のダーチャは別のところにあるのだが、アムール川が氾濫しており、水に浸かっているとのこと。今から行くのはコースチャさんの親戚一同、つまり、コースチャさんの両親、姉の家族、そしてコースチャさんの家族が共同で持っているダーチャということだった。これは政府から支給された物ではなく、金を出して他人から譲り受けたものだと言う。今、建て直しをしている最中ということだった。
 そんな話をしているうちに車は目的地のビノグラード村へ到着。ダーチャにはすでにエフゲーニャさん(コースチャさんのお父さん)とビーチャさん(コースチャさんのお姉さんの旦那さん)が来ており、僕達6人(コースチャさん一家と僕達夫婦)を出迎えてくれた。犬2匹と小猫1匹も一緒だった。小屋は2間あり、まあまあの広さだが、なにせ建て直し中ということで雑然としていた。ベッドもなく、ベンチのようなものがあり、ビーチャさんなどが泊まるときはそこで寝ているらしい。
 小屋の裏に畜舎があり、おびただしい数の鶏が餌はまだかと待っていた。日本の養鶏場のように本棚みたいなところに押し込まれていないで、地面を自由に動きまわっていた。平飼いと言われる飼い方だ。持ってきたパンをやるとよく食べる。兎もたくさんいた。毛皮は商品になるし、肉も食べる。生まれたての仔兎を抱いたナースチャは大喜び。他には豚も何頭かいた。今産んだところだと言ってエフゲーニャさんが卵をくれた。殻のてっぺんに穴を開けて飲んだ。実にうまい。畜舎の横は一面の畑で、キャベツ、トマト、キュウリ、じゃが芋など、沢山の野菜がなっていた。もぎたての野菜を食べる。自然の味。
 アムール河が近くである。釣りへ行きましょうということで、エフゲーニャさんを残して出かける。犬のダルシックもついてきた。余談だがこの犬は実に「チンチン」がうまい。今朝食べた鶏の骨をやると尻尾を振り振り喜んでむしゃぼりついた。この一帯はダーチャが並んでおり、牛や馬もいて、いちいち感動してしまった。
 草木をかき分け川辺に着いた。といってもここ数日の増水で水位が50センチも上がっていたため、本来の川辺からは大分後退したところである。ここにしよう。さっき畑をほじくって捕ったミミズを餌にさっそく釣り始めた。しばらく反応がなかったが、パンを撒き餌して待っていると、コースチャさんが「来た」という。僕達には何も見えないが。…するとほどなくしてビーチャさんの竿に反応があった。釣れた!
 それからビーチャさんは立て続けに釣った。アドバイスをしてもらいながら我慢強く待っていると浮きがピクッと動いた。勇んで引き上げようとしたがすごく重く、びくともしない。どうも釣れたのは魚ではなく、水中に生えている「木」だ。(いや、そうではなく、増水のために、陸地に生えているはずの木が水に浸かっていたのだが)力まかせに引くと糸が切れた。なんてこった…。
 しかし、その後はすごく順調にいった。数えていたわけではないので正確な数は分からないが、3時間ほどで20匹ぐらいは釣れたと思う。釣竿は素朴なもので、アリョーシャ君の竿にいたってはそこらの枝を折ったもの。結局全部合わせるとバケツ一杯にあふれんばかりの魚が釣れてしまった。こんな経験はもちろん初めて。気がつけば蚊の大群も気にならなかった。聞きとれた魚の名前はベルハグリャート、カラーシック…本当はもっと大きくなるそうだが、あいにく小振りのものが多かった。「こんなものは食べられねえ」と猫にやってしまった。
 突然の雨で釣りは中断。走って小屋に戻ればちょうど昼食の用意ができていた。といってももう3時である。(たいがいここの昼ご飯はこの時間帯のようである。)ついさっきまで埃にまみれていたテーブルの上に黒パン、卵焼き、蒸し芋、野菜サラダ、焼鶏そして紅茶がところ狭しと並べられている。黒パンは―ソ連の常識として―テーブルに直に置かれており、そこには当然のように数匹の蝿がたかっていた。
 おいおい…蝿は勘弁してくれ!と言いたくなったが、誰もこのいまいましい蝿たちを追い払おうとしない。彼らにとっては蚊も蝿も人間のお友達なのだ。半分作り笑いを浮かべながら、「フクースナ(おいしい)」を連発していると、いつの間にやら犬のダルシックが足元にやってきて鶏の骨をおねだりした。正直言って蝿さえいなければ…とは思ったが、どれをとっても新鮮な、贅沢なランチには違いなかった。
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6 永遠の灯
 
 車があるついでにハバロフスクの中心部をドライブしましょう、ということで私達6人(コースチャ一家と僕達夫婦)はビノグラード村を後にした。
 中心部は一度セルゲイさんの車で通っているはずだが、その時はあたりも暗かったし、それにゆっくり景色を見ているほど心にゆとりが持てないという事情があって、よく覚えていない。改めて眺めてみると緑の多い落ちついた感じの町並みである。
 コースチャさんが運転しながら街の案内をしてくれる。「ソニコ」という店が見えた。ソ連と日本企業の合弁会社で、こういう会社は今のところ12社あるそうである。
 軍の病院の横にアムールの公園があった。そこには入らず、まずはレーニン通りの突き当りにある、「永遠の灯」を見せてもらった。ソ連では「大祖国戦争」と呼んでいる第二次世界大戦の勝利を記念して6年前に造られたもので、以来ずっと「灯」がともっている。炎の前には誰かが供えた花束がある。大理石の壁には戦争で亡くなった極東住民の名前が延々と刻まれていた。そこでお互いの記念写真を撮った。
 少し口が寂しくなってきて喫茶店に向かう。ザパリナ通りに入ったところにある喫茶店「マロスコ」に入り、アイスクリームはあるかと問えば、店員「売り切れだよ。」エーリャさん「どこに売ってますか?」店員「あなたの方が知ってるでしょ。私は1日中ずっとここに座っているのよ。」…うーん。確かにそうだが。ま、日本ではまず売り切れ自体珍しいことだけど…、それにしても、もうちょっと愛想があってもいいもんだが…これが体制の違いからくるのか、それとも単に国民性の違いなのか。多分後者だと思うが。
 ということでアイスクリームはあきらめてとりあえず市街地のドライブを楽しむ。中華料理屋。一家でディナーを楽しむには1,500ルーブル必要。日本の感覚とは大違いである。カール・マルクス通り。ハバロフスク市街地の中心部。京都でいうと河原町通りかな。映画館、中央郵便局、宝石店、劇場、美術館などが並ぶ。中央野菜広場はゴルバチョフが来日前に立ち寄った場所とのこと。中央図書館はこの街で一番古い建物らしい。そのとなりに日本資本の「レストランサッポロ」があり、対称的。
 さっき素通りしたアムール河岸公園に再び向かう。公園はきれいに整備されており、散歩にはもってこいの場所だ。「クワス飲みます?」…えっ!ソ連では飲み物を「食わす」のか?そうではなく「クワス」というのはパンを発酵させて作るジュースのこと。コーラのようなものかな。飲んでみたが、こんなののどこがと思うが皆うまいうまいと言っていたので一応「フクースナ」と言っておいた。(「まずい」というロシア語は知らなかった。)アムール河はやはり増水しており、堤防越しに水しぶきがかかりそうな感じだった。
 再び車は市街地へ。この街は140年前にエロフェイ・ハバロフという人が拓いたそうで、駅前にその人の銅像が建っていた。アムール並木通りにはあんずの木。右手にサーカスのテント、左手に自由市場を見ながらやがて市街地を後にし、帰宅の途に。しかし、思わぬトラブルが待ち受けていた。
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7 ジプシーの村でエンスト
 
 学生都市へ向かう途中、コースチャさんは道をそれ、未舗装のガタガタ道に入って行った。「水」を捜すつもりだ。断水対策にあらかじめトランクに空の水タンクを積んでいたので、これは予定の行動だった。
 ツィガーンという、ジプシーの住んでいる部落に入り込んだ。ジプシーは基本的には移動民族であり、定住はしないのだが、ここのジプシーはもう何年も住んでいるという。普通は子供が5〜6人いるが、学校には行かせない。定職もなく、泥棒ばっかりする、とエーリャさんが言うと車は止まった。かと思うとコースチャさんは走り出す。井戸を見つけたのだ。
 そうか、しょっちゅう水が止まるので井戸のありかは先刻承知ってわけか…と思っているとコースチャさんは腕で大きく「×」のサイン。次の井戸を捜そう。マシン(自動車)はソ連の最高級品、НИВА(ニーバ)という、名の通った車種だけあって穴ぼこだらけの悪路もなんのその。エンジン快調快調!それにしてもジプシーが住んでいるとあって一種独特のムード。馬が堂々と横切れば「ここの馬は自尊心が強いのよ」とエーリャさん。 よく聞けば井戸ではなく水道を捜しているとのこと。この辺の水道は水が出るはずだという。本当か?しかしいつまで捜してもニエット(No)とのことであたりも暗くなってきたしもうあきらめようか、というときに、目の良いロシア人が暗がりの中そのカロンカ(蛇口)を見つけた。(とにかくロシア人ときたら目の良いことにかけては世界一ではなかろうか。滞在中も何度か驚かされた。100メートル先のバスの番号を見分けたときは正直、たまげてしまった。)
 ともかく、水が見つかり、タンク(「フランダースの犬」のネロが牛乳を配達するときのあの大きいプロパンガスのボンベみたいな)に詰めて、いざ凱旋!…とエンジンをかけようとしたがかからない!セルモーターは回るがウンウン唸るだけである。おいおい、ソ連のマシンは軍隊の部品でできてるんじゃないのか?さっきの馬力はどこいったんだい?頑張ってくれ、の望みむなしくエンジンはかかってくれない。日本だったら電話してJAFに助けてもらうのにな。
 と勝手に思案しているのを知ってか知らずかコースチャさん、ポンと膝を叩き「大丈夫。なんとかなるでしょう。」後ろに回ってトランクを開け、何やら棒状の物を取り出すとボンネットの下の方に差し込んでいきなり回しだした。おっ!これはもしや…。昔の白黒の映画でしか見たことのないあのやりかただ。手伝ってくれと言われ、かけ声に合わせキーを回してアクセルを踏みこんだ。かかった。バイクじゃあるまいし今時こんなのが通用するとは思わなかった。すごい!日本人2人だけが妙に感心してしまった。
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8 ハバロフスク中心部を歩く
 
 8月12日月曜日。コースチャさんは今日からまた大学の仕事。副業としてコンピュータのプログラミングをしている。昼からエーリャさんに街に連れて行ってもらうことになっていたが午前中は暇をもてあましていた。少し天気は悪いが思い切って妻と2人だけで近所の散歩に出かけた。教員寮と学生寮、それに一般の住居、どれも同じ形の建物なので見間違えないように気をつけなければならない。大体7〜8階建て。狭い日本には平屋や2階建てが多いのに広いソ連で集合住宅ばかりなのはなぜなんだろうか。
 近くの保育園ではちょうど昼休みのちびっこたちが遊具で遊んでいた。そこへ雨。軒下でしばし雨宿り。ずっとこんな天気が続いている。日本も雨だろうか。…それにしても感心することがある。さっきから犬や猫によく出会う。放し飼いだがとても品性がいい。吠えないし、毛並もきれい。この犬死んでいるのかな、と思うほど無防備な姿勢で寝ていたりする。
 マガジンで(念願の)アイスクリームを買って食べた。とてもおいしかった。添加物の混じっていない、ミルクと砂糖の味である。後で知ったのだが、店でアイスが買えたのは幸運だった。冷凍庫に入れるという習慣がないのか、日本のようにいつも売っているわけではなく、入荷したときにすぐに買わないとあっというまに品切れになるのだ。 散歩が終わったらアリョーシャが「熊の学校」を見せるというので何のことかと思い、サーシャさんの部屋に行ってみた。部屋に入るとカーペットが敷いてあった。「熊の学校だよ」…?「アーわかった。」通訳である妻が間違いに気付いた。「学校(シュコーラ)」ではなく「毛皮(シュクーラ)」だったのだ。カーペットと思ったのは熊の毛皮そのものだったのである。触るとまだ油でべとべとしている。手足や顔がその形をまだとどめている。大きい。自分の手と比べると爪だけで親指の長さぐらいある。この毛皮がまだ生きていた頃を思い浮かべてみた。「それ、友達が撃ち殺して剥いだ物をもらったんです。そこらへんの森にいますよ。」とサーシャさん。嬉しくなって記念撮影をした。
 ボルシチと、クレープみたいな食べ物「ブリニー」をいただいた後、2組の夫婦は2時半頃出発(子供達は祖父母の家に預けて)。今日は例の15カペイカのイカルスに揺られて行く。8番か23番に乗れば「カールマルクス通り」に行ける。そこで何軒か店に入り、みやげ物を捜した。雑貨屋のような所でふくろうの形をした定規を見つけ買った。ソ連での物の買い方は日本とは少し違う。まず、ほしい品物があれば申し出て、金額を計算してもらう。そして、別の所でお金を支払い、レシートをもらう。そのレシートを持って再び元の所へ行き、品物と交換してもらう。定規の他、絵はがきなど小物を買った後、「スニェージニック」という喫茶店に入った。店内はそこそこの客の入りであったが、日本とどこか感じが違う。日本なら客が席につけばウエイトレスがおしぼりと水を持って来るだろう。気のきいたBGMと少し効きすぎの冷房の中で彼女は注文を聞くはずである。ところがその光景はもう数年前から見ることができない。(もっとも、冷房についてはもともと必要ないが。)コースチャさんはすでに数人が列をなしているカウンターまでおもむき、数分待った後やっと「ピロージュヌ」を注文することができた。待っている間、春には鈴蘭やグラジオラス、ボタン、薔薇などが咲くのよ、などとエーリャさん。それから、国営カフェは品物が少ないが安い、別に協同組合の店もあるが、品数だけは多いが高いしまずい、という話もしてくれた。
 ピロージュヌというのはカステラの様なケーキで、トールトという大きいケーキを切った物だそうだが、なかなかおいしかった。
 ケーキを食べながら指輪の話になった。左手の薬指に結婚指輪をはめていたが、ここでは普通右手にするという。左手につけるのは離婚しましたという印だそうで、僕達の指を見ながらさっきから気になっていたというのである。ソ連では最近は特に離婚率が増加してきている。女性が自立していける社会を反映しているのかも知れない。まあ、郷に入っては郷に従えというわけでもないが、変な誤解を避けるため、右手の左指に付け替えることにした。
 さて、喫茶店を出て、「ジナモ公園」に向かう途中、結婚したら皆を呼んでパーティー(つまり「披露宴」)をするという「記念会館」という建物が見えた。このパーティーでは友人たちが花嫁を花婿から奪って、どこかに隠してしまってもいいことになっている。取り戻すためにはお金を払わなくてはならないのだとエーリャが教えてくれた。それは、花嫁に対する愛情を確認するための一種の儀式なのかもしれない。
 などと真剣に考えているうちにジナモ公園に着いた。この公園はボート遊びのできる池やスタジアムを持っており、木々に囲まれた、落ち着いた感じのする、大きな公園である。ジナモスタジアムは陸上競技など各種競技のできる総合グラウンドで、よく試合が行われているらしいが、その日はあいにく何も試合がなかった。きっと体格のいい選手たちがこのグラウンドを走り回るのだろう。更衣室は汗くさいだろうな、などと想像しつつ、トイレに入ってびっくりした。ロシア人の足の長さに合わせて作られているので、男性用の便器が典型的な日本人スタイルの僕には少々用を足すのが困難なほど高く備え付けてあったのだ。
 こういった、些細なことにも国の違い、民族の違いを実感させられるものである。(特に、足の長さは絶対に勝てない。)
 帰りも「イカルス」を使った。セールッシュバ通りから乗ってインスティトゥート・ナロードナバ・ハジャイストバ(農大前)の次のハバロフスキ・パリチェフニーチェフスキ・インスティテュート(ハバロフスク工科大学)というバス停で下車し、家へ戻った。
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9 日ソ親善音楽の夕べ
 
 その夜、サーシャさんの部屋で、パーティーをした。参加者は僕達夫婦、コースチャさん夫婦、レーナさん(コースチャの姉)夫婦、そしてサーシャさんの計7名、部屋の主のサーシャさんはこの日のために昨日コンピュータに登録してある作り方を見ながらやってみたら失敗したと言いながらケーキを出してくれた。
 コニャックで乾杯。大きなカニをしゃぶりながら、話は弾む。
 コースチャは以前、学生寮にいたが、そこでカラーテレビを盗まれたことがあり、今は白黒で我慢しているという話が印象的だった。あと、レーナさんの旦那さんは国境警備隊に所属しているという。話に夢中になっていて、コニャックのたっぷり入ったグラスをうっかりこかしてしまった。それがケーキにかかって大騒ぎ。しかたなくそのコニャック味のするケーキを平らげたわけだが、お陰で他にもいろいろな話をしたのだが、すっかり忘れてしまった。ほろ酔い気分になったところで、夜も更けてきたことだし、歌を歌いましょうということになり、ソ連側、日本側、代わるがわるに「発表会」をした。レーナさん夫婦、コースチャさん夫婦ともに歌がすごく上手で、ギター伴奏も手慣れたものだった。美しい合唱を聞かされ、プレッシャーを感じつつも、我々が用意してきたレパートリーを披露した。彼らはとても喜んでくれ、特に日本的な感じのする曲に感動したようだ。「さくら」「竹田の子守歌」「もみじ」…。
 あっという間に時間は過ぎ、お開きになったのは午前0時頃だった。
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10 アムール河の波
 
 次の日は少し遅めの起床のあと、午前中は暑中見舞いを書いた。店で見つけたすてきな絵葉書に、普段の年なら暑中見舞いなど書きはしないのに、ついその気になってしまった。
 午後、アムール河に連れて行ってもらった。1人3ルーブル払って遊覧船に乗った。コースチャさんが気を利かせてビールとビスケットを買ってきてくれた。「おいしいよ」と言われたけれども素直に「ダア(Yes)」とは言えなかった。ビールは日本のように冷やすという習慣がないため、なま温かく、ビスケットは湿っていた。カロリーなんたらという健康食品みたいだった。
 船内でビデオが上映されていたが、アメリカ製のアニメだった。子どもたちが熱心に見入っていたが、それではせっかくの広大な眺めがもったいないと思った。もっとも、子どもたちにしてみれば見慣れた風景なのかもしれないが…。
 甲板を吹く涼風に身を委ね、飛び交うカモメに目を奪われながら、流れゆく大アムールの少し濁った水にしばし呆然となる。この川はソ連と中国の国境を何万キロもの長い距離を何万年もの間、ずっと流れ続けているに違いない。ふと「アムール河の波」という合唱曲が自然と脳裏に浮かんできた。
 
 見よ アムールに波白く シベリアの風立てば
 木々そよぐ 川の辺に 波 逆巻きて 溢れくる
 水 豊かに流る
 船人の歌 響き 紅の陽は昇る
 喜びの歌声は川面を渡り 遥かな野辺に幸を伝える
               (合唱団白樺・訳詞)
 
 我々を乗せた船は一旦下流に向かって進んだあと、Uターンし、今度は上流へと向きを変えた。前方にとてつもなく長い鉄橋が架かっており、ちょうどそこにこれまたとてつもなくたくさんの車両をつなげた貨車が渡っていくのが見えた。
 この日はまだ長雨の影響で上流から木の枝などの粗大ゴミが流されて来ていた。水かさも結構多かったので、遊覧船で景色を楽しむだけに終わった。
 
 2日後、このアムール河で遊泳をすることになった。まだ水量は多かったが幾分退いており、泳ぐには支障がない。少し濁ってはいるが、冷たく気持ちの良い水だ。
 浜辺には大勢の「海水浴客」ならぬ「淡水浴客」が楽しく時を過ごしていた。泳いでいる人も多いが、浜(川岸)で甲羅干しをしている人も少なくない。ブリーフ姿の男性から、ハイレグの女性まで様々だ。どの人も短い夏の間に少しでも太陽の光を浴びようとしているようだ。(だからこういう人たちは「日光浴客」と呼べばよい。)
 更衣ボックスがあって勝手に使うことができる。持ってきた水着に着替え、勇気を出して(!)アムール河で泳いだ。海とまちがえてあまり沖へ行くと流されてしまう。それに遊覧船や貨物船も堂々と往来している。衝突の危険もあるので気をつけないと。少々勝手が違ったものの、海水浴の気分を味わいながら30分程遊んだあと、買っておいたレモネードとケーキをいただいた。
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11 郷土博物館のスターリン
 
 14日の午後、妻と2人だけで街へ出ることにした。ひととおり案内してもらっていたので、市街の地図を頼りに何とか2人だけで大丈夫だろう。
 途中、コースチャさんの職場である工業大学を見学させてもらった。ここは極東で最も大きな大学で、数千人の学生が学んでいる。ソ連では大学といえばこの工業大学も含めて普通は5年制。しかし、医科大は6年、鉄道大は3年と、いろいろある。コースチャさんはここで3科目を教えている。1講座は90分で週に10コマあるそうだ。授業は9月1日から始まるが、1〜2ヶ月間は授業返上でコルフォーズの収穫の手伝いに泊まり掛けで行くそうである。これは革命後ずっと続いているとのこと。またこの大学は2部制で、これは、アリョーシャ君の小学校と同じだった。
 大学の校舎がさすがに大きく、どっしりとした感じがする。まわりの環境も落ち着いており、アカデミックな雰囲気が漂っていた。
 
 さて、バスに揺られてアムール河のほとりに来た。ベンチで休んでいると、ロシア人の中年男性が1人やって来て、隣に座った。「ジャパン?」と英語で話しかけられたので、「イエス」と答えたら、「サッポロ?トーキョー?」と言うので、「ノー、キョート」と答えた。おじさんは「?」という顔をした。どうも京都を知らないようだ。(このおじさん、モグリだな)と内心思っていると、おじさんはお構いなく、ロシア後で話し始めた。すぐそばにレーニンスタジアムがあるが、そこに日本のアイスホッケーのチーム(王子製紙)が試合に来たという。そのおじさんはホッケーが好きらしく、その話をたくさんしてくれた。細かいことはよく分からなかったが、「ふんふん」と適当に相づちを打って聞いていたら、最後に小さなバッジをくれた。
 ソ連の人達はバッジを特に好むようで、店頭にも様々なバッジが並んでいたし、滞在中、おみやげだといっていろんな人からいただいたりした。せっかくなので喜んで頂戴し、お礼に(といっても何も返すものがないので)ポケットティッシュを手渡した。(これも一種の自由市場かな?)
 
 アムール河公園の一角にある郷土博物館に入った。入場料1ルーブル。1階はシベリアの自然を再現した感じで、いろいろな動物の剥製が所狭しと陳列してある。イタチ、ネズミ、鳥、ラッコ、豹、虎、熊、猪、狸、狼、山猫等々。すべて等身大なので(当たり前か…)迫力がある。特にカモシカ、熊、虎。猛獣が獲物を捕らえ、食べている姿がそのまま標本になっている。
 街の外はいわゆる「郊外」だが、その外には「森」(市民が憩いの場としている)があって、さらにその外は広大な「タイガ」と呼ばれる森林地帯になっており、銃なしでは踏み込めない世界が広がっている。今もタイガではこうした猛獣たちの喰うか喰われるかの壮絶な光景が繰り返されていることだろう。
 
 一転して2階からは人間の歴史をテーマにした展示になっている。
 2階は原始時代から戦前までのシベリア(極東)を中心とした人々の風俗、文化を扱っており、エスキモーの暮らしが再現されていた。素朴な家の造りの中にも、細かい装飾が施されており、寒さに耐えながらも豊かな自然の恵みに囲まれ生き抜いた先住民たちの独特な文化の存在を今に伝えている。
 17世紀、ロシア人が東へ東へと探検をし、オホーツク海からアムール河を遡り、港町としてこのハバロフスクが拓かれていった。元々ロシアの探検家、ハバロフの名にちなんで、1858年、ハバロフカ哨所として建設され、後、1880年に市となった。1893年にハバロフスクと改称し、…ということは「遷都1200年」を間近にした京都と比べればまだまだ新しい町といえる。ロシア革命への干渉で、1918年から20年にかけては、日本軍および白衛軍が一時占領していたが、22年11月ソ連領になったという経緯がある。
 この町をつくった人々の業績を称えた展示が誇らしげである。
 3階は世界大戦の資料である。ソ連では第二次世界大戦(特に対ドイツ戦)を「大祖国戦争」と呼び、祖国を守った名もない兵士を英雄として今も称えている。(あとで行ったパン屋にも「障害者と大祖国戦争の兵隊だった人優先」の掲示があったぐらいだ。)1941年、ドイツが不可侵条約を破り、奇襲攻撃を仕掛けたことで始まったこの戦争で、ソ連では戦闘員、非戦闘員合わせて2千万人が犠牲になった。しかし、人々は進んでナチスとの戦いに赴き、敬服すべき勇気を発揮したという。
 独ソ戦の後、45年8月9日、ソ連は対日戦争を開始した。日本軍は満州、サハリン、千島で多くの戦死者、捕虜を出した。60万と言われる日本人捕虜はシベリアへ送られ、きびしい労役につかされた。
 また、ハバロフスクでは細菌戦準備に従事した石井部隊(七三一部隊)の関係者などに対する戦争犯罪裁判が行われた。
 博物館はこうした歴史的事実を冷静に伝えている。また、この戦争を指揮し、偉大な指導者と称えられたスターリンもその死後、批判の対象となっていった。実際、この博物館でも日本人捕虜の様子などと共に、スターリンの粛正についての展示があり、写真や資料で詳しく知ることができるようになっている。彼を厳しく非難するポスターや絵画も多かった。
 日本にはこういう博物館は少ない。
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12 自由市場はソ連を救えるか
 
 僕達は持ってきた日本円をあらかじめルーブルに換金してもらっていた。公定レートは現在1ルーブル=5円。これを銀行でやってもらうと手数料を100%取られ、1ルーブル=10円となる。僕達はいわゆる「闇レート」で、100対15の割合、つまり、100円で15ルーブル(1ルーブル=約6円67銭)で、持ってきた日本円をルーブルに換えた。
 暑中見舞いを日本へ出したが、この切手代が35カペイカ。これは約2円に当たる。この調子でいくとバスの運賃は1円。遊覧船が20円である。以下、しばらく「経済」の話を。
 コースチャさんは軍関係の店でウールのマフラーを買った。以前は5ルーブルで買えたのが、インフレで12ルーブル(80円)になっていた。パン屋で食べたケーキとジュースの値段が3ルーブル20カペイカ(21円)。ガソリンは1リットル50カペイカ(セルフサービスで3円)。安い!確かに日本から来た僕達にしては全てが安く感じる。しかし、彼らの平均的月給が800ルーブル(5,300円)であることを考えればどうだろう。今の数字を大体50倍すれば同じ感覚になれるのではないだろうか。1ルーブル=300円ぐらいで計算してみては?為替レートというのは単純に経済的なものだけでなく、政治的なことが大いに絡んで決まっているものなのである。
 ゴルバチョフ大統領が推し進めるペレストロイカはソ連に市場経済を持ち込んだが、これにより市民生活は少なからず混乱している。
 商品は高く売れる自由市場に集まり、安い国営店から姿を消した。政府は2年前から「クーポン」と呼ばれるカードを発行し、油、塩、砂糖、胡椒、タバコ、酒、肉、小麦粉、石鹸等を「配給制」にした。クーポンには1月から12月まで、それぞれの品物と量が印刷されてあり、これと引き換えに買うことができる。しかし、これだけではとうてい足りないので、高いお金を出して自由市場で買うことになる。 8月15日。今日は日本では終戦記念日だ。(そういえば今のソ連は日本の戦中から戦後のしばらくの状況と似ている。自由市場といえば聞こえは良いが、早い話が闇市のことではないのか、という思いがよぎる。)さて、この日はアムール河で泳いだ日だが、川へいく途中で実はその自由市場「バザール」に寄ったのだった。閑散とした国営店とは違い、人がたくさん集まっている。テント状の店がひしめき合い、お祭の露店状態で、多種多様な物が売られていた。さっそくおみやげにとバッジを10個(1個20〜35カペイカ)買う。妻は兎の毛皮で作られた帽子を60ルーブル出して購入した。牛乳を発酵させてどろどろにした飲物があり、すすめられた。バレニェッツという、そのジュースは1ルーブル半。決してうまいものではない上に、量が多かったが、せっかくすすめてくれたのを断るのも申し訳なく思い、一気に飲んだ。飲みながら、前に一度胃の検査でバリウムを飲んだ時を思いだした。ヨーグルトを更に腐らせたような感じの飲物だった。
 中古品店というのが近くにあって、興味深い品々が置いてあった。ピアノ(2,160ルーブル)、ラジカセ(2,200ルーブル)、ミシン(8,500ルーブル)、ソファ(4,500ルーブル)と、どれも「高い」。
 隣のスポーツ用品店では14,560ルーブルのテレビが置いてあり、仰天。スケート靴は400ルーブルで売っていた。
 ここでは何も買えないので、マーケット「ハバロフスク」というところへ寄って、板製の置物と、「ロト」というゲーム、それに手袋(11ルーブル)を2セット買った。
 
 アムール河で遊んだ後、帰途、魚屋でカニの缶詰(19ルーブル)を5つ買った。エーリャさんはそれを見て、「まあ、こんなに高いものを!」と驚いていた。しかし、その魚屋にはタラのほか、いくつかの種類の魚と、カニぐらいしか置いてなかった。カラフトマスを1尾買って店を出た。
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13 回転ブランコとナースチャ
 
 アムール河の遊園地にはいくつかの遊具があるが、その中の1つで、手動の回転ブランコがおもしろそうだったので、ナースチャと一緒に乗ってみた。手動といっても要するに自分で漕いで、その勢いで回転させる、非常に疲れる乗り物である。「しっかり持っときや」と関西弁で言ったものの、勢いが強くてナースチャは振り回され、ブースの中でふらふらになっていた。
 このナースチャという女の子は一言で表せば、「妖精」のような子で、いつも夢を見ているような目をしている。
 一方のアリョーシャはちょっとわがままで、1つのことにこだわる性格の持ち主。結構おませで社交的。友達へのプレゼントだと言っておもちゃの電話を買ったり、なかなかしっかりしたところがある。この2人がまだ7才。今年の10月で8才になる双子である。日本の子どもと比べてとてもしっかりしていると思う。
 
 さて、この国における理想の男性像をちょっと聞いてみたところ、男性は、背が高く、足が長く、肩幅が広く、がっちりしている(かといって、筋肉隆々ではだめ)。顔は愛そう良く、品がないといけない。
 女性の方は毛が長く、自然のウェーブがかかっていること。目はパッチリとしており、足が細長く、肌の色は少しピンクがかった健康的な色ということである。
 コースチャさんとエーリャさんはこの滞在中、しきりにお互いをこの理想像にぴったりあてはまると、ほめ合っていた。見せつけられた僕達は(特に僕は)足の長さという点ですでに勝負にならんな、と半ば白けていたものだ。確かにこの2人はロシア人が好むスタイルと美貌を備えている。それだけに息子アリョーシャと娘ナースチャも将来が有望である。
 
 一度バー(と言ってもいわゆるカフェバー)に入ってカクテル(と言ってもジュースとアイスクリームを混ぜたもの)を飲んだ時に、おそらく中学生くらいの女子数人が僕達の近くに座っていた。日本の生徒と比べて、とても大人っぽい雰囲気を漂わせている。エーリャさんに聞くと化粧やパーマについては校則の規定はないので、親が年齢に応じて子供に教えるそうである。
 それから日本と大きく違うところは性に対する意識。日本の場合、性教育というとちょっと構えてしまったり、生徒も恥ずかしいもの、というとらえ方であるが、ソ連では5〜6歳の頃から家庭できちんと性教育をしているということである。「どうすれば子供ができるか」という、子供向けの真面目な本があるほどだ。
 それから、酒、煙草は21歳から飲んでもよいことになっている。選挙権は18歳からで、この国ではこの歳になったら1人前として認められることになる。そして比較的、結婚し、自立するのも早い。
 ロシア人は「子どもは宝」という発想で、とにかく子どもを大切にしている民族だ。バスに乗ったとき、ある男の人が「まず子ども、そしてお母さん」と声に出して、入り口をゆずるという光景があった。
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14 民族問題とゴルバチョフ大統領
 
 ソ連には百以上の民族が住んでいる。そのうち、約半数はロシア人で、約1億4千万人。次がウクライナ人で4千万人。以下、ウズベク、白ロシア、カザフ、タタール、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジア…と続く。20世紀前半に極東地方から強制移住させられた朝鮮人も約40万人おり、ユダヤ人も180万人いるといわれる。(ハバロフスクにもユダヤ人自治州がある。)
 当然、言語、宗教、習慣も様々で、ロシア語はソ連の共通語であるが、これは帝政時代からロシア人が支配民族として政治、経済、文化を握っており、ロシア語が使えることが出世の条件だったと同時に、自民族を発展させることになるという状況があったからにほかならない。
 また宗教ではロシア正教会が広く普及しているが、イスラム教、仏教、ユダヤ教の信者も少なくない。(ソ連では憲法で良心の自由が認められているが、協会堂の外での不特定の人々に対する布教活動は認められていない。
 
 共同台所のそばを通ったとき、耳慣れない言語が聞こえてきた。グルジア人のおばさん達がグルジア語で会話をしているらしい。独立心の強い彼らは、一歩外へ出るとロシア語を使うのだが、身内では母国語を話すようだ。
 エーリャさんが以前、エストニアに行ったときのことを話してくれた。エストニアはいわゆるバルト3国のいちばん北の国で、ロシア共和国とは陸続きである。ロシアからエストニアへ向かう電車に乗り合わせたエストニア人同士の会話が、国境を越えてエストニア国内に入った瞬間に、それまでのロシア語からエストニア語になって、急に何をしゃべっているのかわからなくなったことがある、ということだった。
 このような多民族をまとめ、連邦を維持していくのは並大抵のことではないだろう。事実、ソ連の歴代の指導者は多かれ少なかれ失敗を重ねてきた。現在、ゴルバチョフ大統領による改革が進められているが、うまくいっているのだろうか。
 経済の専門家コースチャさんの意見はどうだろう。−まず口をついて出てきたのは税金が高すぎる、という話。木を切ったら5%、加工して5%、組み立てて5%、買うとき5%(つまりこれは「消費税」。)こんなに税金を取ってどうするのか、人々はゴルバチョフのポケットにはいるのではないか、と噂している…とのことだ。
 
 そんなまじめな話の後で、裏の畑にイモ掘りにいった。例によって蚊にかまれながら案内してもらった小さな家庭菜園には自給用の数種類の野菜(じゃがいも、トマト、キュウリ、ナスなど)が植えられていた。
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15 ロシアの食生活
 
 この滞在中、いつも感心したのは、出てくる食事がどれも自然の素材を活かした味で、何度食べても飽きが来ない、ということである。エーリャさんの手作りの家庭料理は一級品だとほめたら、ロシア人なら誰でも作れると聞き、妻は心なしか動揺の色を隠せなかった(ように見えた)。
 ロシア料理の基本は黒パンとボルシチ。黒パンはライ麦が原料で、小麦パンより栄養価が高く、風味がある。少し硬く、重たい。ボルシチは肉と野菜のスープで、思ったよりあっさりした味。クリームを落として食べると、より一層おいしい。スープにはウハーというスープもあるが、こちらは魚のスープで、手軽に作れる。
 お米を使った料理としては、お粥(かゆ)があるが、麦粥やそば粥もある。小麦粉と牛乳を混ぜて作るマンナヤ・カーシャは子どものおやつとしても大人気。他にウズベクピラフ(ウズベク地方で食される焼き飯)も食べさせてもらった。
 野菜サラダの定番はキャベツのひまわり油あえ。これはうまい。キュウリ、トマトなどは切らずにそのままかじるのが常。
 海産物ではタラ、マス、サケなどがよく食される。特にサケの塩漬けはおいしく、その「子」のイクラは新鮮で舌がとろけるほど。(「イクラ」はロシア語。サケの卵だけでなく、キャビアなども「イクラ」という。)カニは日本の松葉蟹よりも筋肉がしまっていて、コシがある。
 肉類では牛、豚、鶏の他に、ウサギの肉なども食べる。挽き肉に玉ねぎ、ジャガイモなどを混ぜて小麦粉の皮で包んで油で揚げた「ピロシキ」は有名。
 おやつとして、忘れてはならないのがアイスクリーム。ミルク味のとろけるような甘さ。協同組合が売っているものもあるが、こちらは冷やしあめ状のもので値段が3ルーブルと高い上においしくない。ケーキは各種あり、ロシア人女性なら誰もがオリジナルのケーキを作れるそうである。ビスケットやクッキーも自分で作ったり、店で売ったりしているが、遊覧船で食べたビスケットは湿っていた。
 やめられないのがひまわりの種。香ばしくておいしい。ジャムは天然のイチゴやスグリ等に砂糖を混ぜただけで作った手作りで、ゼリー状ではなく、トロトロしている。これをペロペロなめながら、ロシアンティー(チャイ)を飲む。パンには塗らない。
 飲物としては紅茶の他に、代表的なのがクワスといわれるジュースで、これはライ麦の麦芽に黒パンを加えて作る。炭酸、乳酸、微量のアルコールを含み、茶褐色で、一見ビールのような感じ。街角に自動販売機があって、容器持参で買いにきている人があちこちに見られた。
 「ソーク」というのがいわゆるジュースのことで、他に好んで飲まれるのがレモネード。ただし、これは日本で言っているレモンスカッシュのこと。お酒といえばウォッカだが、アルコール40度で、飲んだ瞬間、喉が燃えるように熱くなるのが特徴。ビールは冷えてなかったせいもあるが、はっきり言ってまずかった。
 果物は厳しい気候を反映してか、あまり種類がない。中央アジア産のスイカはほぼ日本のものと同じだが、現地で「メロン」と呼んでいる「マッカ瓜」は「それではメロンがかわいそうだ」という感じ。ミカンは酸っぱく、リンゴ、ナシは日本のもののように大きくならない。
 夜になって、僕達2人は腹の具合がおかしくなった。昼に無理して飲んだバレニェッツのせいか――?
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16 折り紙と「ロト」
 
 腹の調子はしばらくしておさまったので、みんなで「ロト」をして遊ぼうということになった。この遊びは「ビンゴ」に似たルールで、袋の中から無作為に抽出したコマに書かれた数と、手元のカードに書かれた数が、横1列につき5個一致すればゴールという、いたって簡単なもの。ところが、ロシア語についてはいくつかのあいさつの言葉しか覚えてこなかった僕は一気にパニックに陥ることになる。とにかく1から100までの読み方をマスターしなくてはいけない。とりあえず妻に教わった通り、カタカナで1から100までの読み方を紙に書き、それを見ながらゲームに参加した。繰り返しやっていくうちに何とかわかるようになってきたが、7才の子供に笑われながらの悪戦苦闘だった。
 
 その後、遊んでもらったお礼に(?)アリョーシャに日本の折り紙を教えてやった。「ヤッコさん」や「だまし舟」を折ってやると、夢中になって、次々に折り方を教えてもらいたがった。「カブト」「鶴」「紙風船」「手裏剣」。レパートリーが尽きた頃に父親がやってきて、もう寝る時間だよ、と言ってもアリョーシャは必死に折り紙で遊んでいた。
 ただの折り紙遊びだったが、このときばかりは妻の通訳なしで僕達は充分通じ合えていた。
 2度目にコースチャさんが迎えに来たとき、彼はまだこの魅力的な遊びを続けたそうにしていたが、父親の顔色を少し気にしながら、しぶしぶ部屋に戻っていった。
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17 レコードと小箱とリコンファーム
 
 8月16日。日本人墓地へ連れて行ってもらう約束の日だ。途中、いくつかの寄り道をした。
 まず、レコード店へ。「メロディア」という店で、けっこうたくさんのレコードが置いてあった。特に子供向けのものがたいへん多い。
 知っている「洋楽」を捜してみると、大好きなクイーンをはじめ、ブラックサバス、レイチャールズ、スコーピオンズ、ボンジョビ等々が目に止まった。
 コースチャさんが気に入ったレコードを買った。面白いのは「試し聞き」ができるということである。聞いてみたいレコードがあれば、実際にヘッドホンで聞いてみて、気にいればそれを買うし、欲しくないと思えば断ってもよい。まだまだCDプレーヤーは普及しておらず(店内にCDは数枚しか置いてなかった)、レコードといえばアナログレコードのことである。そうやってみんな試し聞きをするので商品価値が下がりはしないかと心配になる。
 コースチャさんにならって僕達もそうやってLP版、EP版、合わせて8枚のレコードを約20ルーブルで買った。
 
 次にハバロフスク市議会の議会棟に連れて行ってもらった。その日、議会は開かれておらず、かわりに美術展が開催されていた。僕達は手元にあるルーブルがほとんど減っていないのがずっと気になっていた。そういえば、あまり今まで高価なものを買っていない。というよりも、前述した通りの交換レートから来る円の優位性から、すべての商品が「安い」のである。一度「ベリョースカ」という外貨店でスプーンの置物を日本円で885円出して買った。元の値段は51ルーブル35カペイカだったから、257円のはず。これは、明らかに日本人観光客目当ての「二重価格」であった。このような外貨店やバザールのような自由市場は例外的な物価高に襲われおり、一般のロシア人にはなかなか手が出ない状況になっていた。
 僕達はこの旅行の記念にロシアの伝統的な工芸品を持って帰りたいと思い、展示室に陳列してある品々を物色したが、最終的に白樺で作られた小箱(シュカトゥールカ)と、木製のスプーン2本を450ルーブルで買った。(繰り返し述べるが、ロシア人にとってこの値段は目玉の飛び出るほどなのだ。)
 僕達は市議会の行われる会議室に入ることを許されたが、そこはテレビでみた人民代議員大会などと同じ、官僚的で、庶民とはどこかかけ離れた感じのする空間のように見えた。聞くところによると、議員との出会いの夕べなどの催しがあるそうだが、人々はあまり選挙に関心がなく、議員などの権力者は何かと優遇されているとのことであった。
 
 その後、アエロフロート(航空会社)の代理店に行った。帰りの飛行機に乗るための手続きが必要なためである。(これはリコンファームといい、出発の72時間前までに予約を確認しなくてはならず、これを怠ると予約が自動的に取り消されてしまうという仕組みになっている。)前日も行ったのだが、その時は何と、「今、コンピュータが故障で、動いていない」という、信じられない返答だった。これがスプートニクを打ち上げた国のできごとなのかいな。「一応名前を控えておきます。」ということだったが、誰もその言葉を信じず、こうしてもう一度足を運んだわけである。今日やっとコンピュータが直ったということで、リコンファームの手続きが間に合った。よかった。これで予定通り日本に帰れる。
 
 こうして僕達はやるべきことを終え、やっと墓地へと向かうことになった。郊外にある墓地の一角が日本人墓地になっており、戦争で亡くなった多くの日本人の名前が刻まれていた。
 僕達は無口になった。
 
 帰宅後、買ってきたレコードを聞いた。プレーヤーが古く、ときどき止まっては油を差して使った。コースチャさんが買ってきた、今ソ連で最も人気のある歌手、ダブリニンのレコードを僕達にプレゼントしてくれた。
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18 ビーチャさんの家
 
 18日の夜はビーチャさんの家でお別れパーティーを開いてもらった。ビーチャさんの家は新しい建物で、部屋からアムール河が見渡せる眺望の良いところに建っている。これは順番待ちをして国からもらった部屋で、電気、ガス、水道代と25ルーブルほどの部屋代を払っているそうである。
 コースチャさんの住んでいる大学の寮は石造りのものだが、暖かい代わりに作りが古く、狭いため、生活には向かず、ビーチャさんのところのような新しい家に移れるよう、申請しているそうである。
 新しい家はパネルを組み立てたような作り方で、1軒56平方メートルで、各戸にバルコニーがついている。(断っておくが、別荘は別として、ここには一戸建てはほとんどない。「家」といえば7〜8階建ての集合住宅のことである。)
 ビーチャさん、レーナさん夫婦には3人の娘さんがいる。ソ連では男女の別なく、必ず働くことになっており、社会的に女性は男性と対等である。そしてそのことを保障するため、さまざまな制度がある。
 産休は産前、産後56日ずつあり、有給。学生が出産する場合は、1年間の休学が認められ、その間、食料など、生活に必要な物品が支給される。働いている場合は子供が3才になるまでは育児休暇を取ることができ、その間は無給だが、子供1人につき、月40ルーブルの扶養手当が与えられる。さらに、それ以後も3ヶ月に1回、1子につき60ルーブルの補助金が支給される。もちろん保育所も整えられている。
 こういった制度に加え、「独身税」がかけられていることもあって、平均的にソ連では結婚、出産の年齢は低く、エーリャさんの話によると、平均出産年齢は20才ということだった。しかし、女性にとっては自立できていない男性と一緒になることは自分の自立を妨げられることになり、その結果として、離婚するカップルも近年増えているとのこと。平均で3組に1組が離婚しているという統計もある。
 教育はすべて国営で、11年制の義務教育から、その上の高等教育にいたるまで、いっさい無料。大学では奨学金(成績が悪いともらえない)が与えられ、寮も完備。クラブ活動の費用も国が出してくれる。医療についても完全な国営で、診察から手術、薬代、入院中の食事代まで、全くのただである。
 55才で定年退職後は(最近の物価高のため)「生存に耐え得る程度」になってしまったが、一応誰でも年金を受け取ることができる。親の面倒は子供がみるものだという考え方が一般的で、日本に老人ホームがあると聞いて、「それはかわいそうに」と、同情を買ってしまった。
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19 お別れの日
 
 いよいよ日本へ帰る日がやってきた。僕達はお世話になったコースチャさん、エーリャさんの2人をぜひ日本へ呼びたいと考え、来年3月を第一希望として、申し出た。2人もぜひ実現したいと答え、思いは早くも来春の日本へと飛んでいた。
 
 さあ出発という時に、ロシア人は儀式をする。僕達もその慣例に従った。どんな儀式か−それは「座る」のである。僕達4人はしばしベッドに座り、旅の無事を祈った。
 
 コースチャさんとエーリャさんはハバロフスク空港まで僕達を車で送ってくれた。2組のカップルは空港の外でアイスクリームを食べつつ、名残を惜しむように次々に話題を見つけては、きたるべき再会の日を想い描き、楽しみで胸を踊らせていた。
 そして、ハバロフスクの大地に吹く風に僕は夏の終わりを感じていた。
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あとがき
 
 ハバロフスク空港15時40分発アエロフロートSU811A便新潟行。今まさに、このハバロフスクの地を飛び立とうとしている。今から振り返るとこの10日間は夢のような日々だった。そしてこれまでの人生で最も充実し、新しい発見の多かった10日間だった。座席に深く腰をかけながら、この「短かった」日々を振り返ってみる。
 
 一番の思い出はダーチャ(別荘)に行ったことである。鶏、兎、豚が飼育されており、牛や馬もいた。アムール河に釣りに行ったが、草木をかき分け、蚊に襲われながら、釣り糸を垂らせば、釣れる釣れる…数時間で1人20匹ぐらいの小魚が釣れた。コースチャさん、ビーチャさん(コースチャさんの義兄)それにアリョーシャ君の計男4人でバケツ一杯になるまで釣った。子供の頃家の近くにあるドブ川でよく釣りをして遊んでことがあったが、これほど簡単にしかも次から次と魚がかかるという経験は初めてだった。釣りはのんびり、辛抱強くやるものという認識は改めなくてはならない。
 突然の雨のため、やむなく釣りを中断し、ダーチャにて昼食ということになったが、なにせ畑の真ん中、蝿が飛び交っている中での食事である。テーブルの上に直に置かれたパンに蝿が何匹も止まっている。しかしそんなことを気にしていてはいけない。蚊であろうが蝿であろうがここの人達は皆、自然とともに生きているのだ。だから全く気にせずパクパク頬張る。
 採れたての野菜、産みたての卵、絞りたての牛乳…どれも新鮮そのものである。少々蝿が飛んでいようが、埃にまみれていようが、味は結構いける。この時の食事は大変印象に残った。これこそ忘れていた味だ、と思った。(「よく言うわね、顔が真っ青だったわよ」とは妻の冷やかしである。)
 ハバロフスク中央の市街にも何度か連れて行ってもらった。この国はどこでもそうなのだろうか、バスに乗る時の料金は自己申告制である。15カペイカ(1人分)を備え付けの料金箱に入れ、自分でダイヤルを回し、切符を切る。お金を入れても入れなくてもダイヤルは回り、切符が出てくるし、出てきた切符は誰に見せる必要もない。こんな制度でよくもキセルや無賃乗車がないものだとまずは感心する。
 黒煙を吐きながら舗装の悪い道を満員の乗客を乗せて走るイカルスという名のハンガリー製の黄色いバスは、決して乗り心地の良いものではない。現地の評判も悪いようである。やがて市街地に着く。道の両側の建物は1つ1つがどっしりとしており、なぜか歴史を感じさせる(実際にはまだ新しい街である)物ばかり。そして必ず歩道と車道の間にポプラか白樺か何かの並木がある。全体的に緑の中に街があるという雰囲気である。
 10分ほど行列を我慢して(ここの人は平気)アイスクリームを買ってはそれを食べながらぶらぶら歩く。いくら歩いても疲れを知らない様子。いろいろな店に寄り、そしてアムール河に出る。
 歌にも歌われたアムール河。これがそれなのか。川は一見海のようである。はるか向こうに見えるのは島であり、何艘もの船が往来し、浜辺では大勢の人が水と戯れている。短い夏を存分に楽しんでいるようである。念願のアムール河遊泳をした。水は茶色に濁っていたが、少し冷たくて気持ち良い。上空をゆっくりとコウノトリが3羽飛び、川面を渡る風が日本とは違ってさわやかであった。
 この国の時間の流れはこの川のごとくゆるやかであり、自然はまた雄大である。人々はこの溢れる自然の中で、自然と共に生きている。確かにソ連は今経済危機に陥り、物不足と物価高のため人々の生活は決して楽ではない。しかし、突然やってきた我々2人を快く受け入れてくださり、今までで一番充実した夏休みをくださったホストファミリーの皆様をはじめ、この土地に生きる人々は日本が今失いつつある何か、そして、もう失ってしまった何かを大切に守っているように見えた。
 
 さて、こんなことを考えているうちに新潟空港に着いた。たったの2時間、近いものである。新潟に着いて驚いたことには、ソ連でクーデターが起こったということである。号外を読めばその発表はちょうどハバロフスク空港で出発を待っているときにあったらしい。何ということだろう、来年3月にはコースチャさん夫婦を日本に招く約束をし、期待に胸を膨らませていたところだというのに…。
 
 幸いクーデターは三日天下に終わり、再び平和が訪れた。この国の情勢は日々刻々と変化しているが、そのような時期に10日間のホームステイができ、生活の様子や、人々の考え方に触れることができたのは幸いだった。いくつかの後戻りを経ながらも確実により良い方向へ社会は動いてくれるだろう。(そう望みたいものである。)だが、日本やアメリカの真似をするのではなく、この国の良い点は大事に残していってほしい。また、日本としても、もっと深くこの国を知れば、学ぶべき点は多くあるのではないだろうか、と思わずにはいられない。
 
(1991年、8月末)
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「ハバロフスク酔夢譚」について
 
 井上靖作の「おろしや国酔夢譚」は最近映画化されたので、知っている人も多いと思う。僕も妻と一緒に映画館に行った。緒方拳演じる大黒屋光太夫はじめカムチャッカに漂着した神昌丸の船乗り達の運命は、まるで歴史の大きな波に飲みこまれていくかのように、僕の目には映った。
 
 ロシア語のできる妻に誘われ、初の海外旅行をハバロフスクという極東の「田舎町」で過ごした僕は「ソ連」という大きな国がこんなに突然になくなってしまうとは思ってもみなかった。
 1991年12月、ソ連は解体。その後バルト3国をはじめ各共和国が次々に独立。「レニングラード」は「サンクト・ペテルブルグ」になった。
 思えばこの1991年という「ソ連最後の年」にその地を訪れることができたのはとても幸運だったし、結果的に貴重な体験になった。この体験を文字にしておこうという考えは帰国してからずっと胸の中にあった。現地で書き留めたメモをもとに少しずつ文章化していった。
 ソ連が崩壊しても、約束どおり、次の年、僕達はコースチャさん夫婦を日本に招待した。また楽しい思い出が積み重なった。
 
 歴史の大きな波に飲み込まれそうになりながら、僕達は懸命に今を生きている。この「ハバロフスク酔夢譚」は僕なりの目で見た、崩壊寸前のソ連の――しかしながら同時にそこには今を生きる人々の息吹が聞こえる、のどかな田舎町の――生の姿である。 
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